2011年6月、池袋のはずれに独立一号店「AGALICO」を出店。“アジアンビストロ”という独自のジャンルを生み出し、超繁盛店を創り上げてきたBig Belly 代表取締役 大林芳彰氏。グローバルダイニング「モンスーンカフェ」の旗艦店で料理長を務め、桁違いの売上を叩き出し、あらゆる客層を食事と空間で満足させるノウハウを持つ。すべて同氏の広く深い食体験に基づくアジアに特化した独自のユニークなメニューには、ファンも多くレシピ本も出版する程だ。いま業界で最も注目されるオーナーの一人である彼が新たなステージを目指し、FC展開に取り組んでいる。プロデューサーとしても国内外からひっぱりだこの大林氏に、アガリコの強み、そしてFC展開に込めた思いと戦略を聞いた。
<“アガリコ”の基盤を創ったグローバル時代>—まずは、創業の経緯からおきかせいただけますか。
初めて代官山の「モンスーンカフェ」で食事をしたときに、その圧倒的なスケールに衝撃を受けて、次の日には「働きたい」と頭を下げにいっていました。それから13年間、グローバルダイニングで料理をしてきました。最初はアルバイトから入って、2年ほどキッチンを担当。いったん現場を離れて、3ヶ月間、料理を学びにタイに行ったんですよね。そこで、食材や調味料、調理法など、必死に習得しようと現地の厨房に入れてもらって働いてたんです。
—帰国後、「モンスーンカフェ」の各店で料理長を歴任されましたね。
そうですね。渋谷、お台場、ららぽーとTOKYO-BAYの各店の料理長を経て、2009年には旗艦店「モンスーンカフェ 舞浜」の料理長に就任しました。ずっと独立は考えていたので、そこで飲食店経営のノウハウを学びました。経営に必要な数字やマーケティングを徹底的に学んでは、店ですぐに実践。メニューも自分で開発して出していたので、どんなメニューがどんなお客さんに受けるのかなども経験としてつかむことができました。舞浜のお店だと、一日1500~2000人のお客さんがいらっしゃることもあって。ファミリーも、カップルも、女性客も一人客もいろんな方がいらっしゃるんですよね。なので、そのときに今のアガリコの基盤となっているメニューを、アタックでいろいろ出してテストしていたんです。
—当時からアガリコというお店が頭にありながら、トライアルを繰り返していたんですね。
そうですね。独立する3~4年前くらいからずっとありましたね。
—なるほど。そこで“アジアンビストロ”という業態の基礎ができてきたわけですね。
その間も、海外には年に3~4回行くようにしていました。アジア全域をまわって、現地の料理を現地で食べて、現地で働いて、という経験が一番のベースであり、それがうちの強みですね。
<アガリコブランドを支える300超の㊙︎レシピ>—なるほど。現地で働くというのは現地の飲食店で料理をしていたということですよね。
そうそう。タイ人と一緒にキッチンに入ってました。(笑)ホテルの1階にベトナム料理屋があったんだけど、3ヶ月そこで。夜は料理をして、昼間は屋台巡りとかしてましたね。世界中のアジア料理を食べ尽くしたというのと、アジア料理を現地で学んできたというのが他社にはない強みだと思います。
—日本と現地でのアジア料理をどちらも分かっているという点は、料理にどのようにいかされているんですか。
現地の厨房に入って、調理方法や食材も深く見てきたからこそ、ちゃんとアジア料理だけど、自分なりのアレンジができるんですよ。ベースがわかっているから、タイ風にもベトナム風にも簡単にアレンジができる。そもそもタイ料理を専門にやっているシェフって、日本にあんまりいないんですよ。例えば、インド人のカリスマシェフっていないでしょ。僕はアジア料理のカリスマシェフになりたいんですよね。
—メニューもアジア全域をカバーしているというのは強いですね。
そうですね。ベトナム料理店だったら「フォー」、シンガポールだったら「ラクサ」とかだいたい決まっているじゃないですか。それをまとめて食べられるところがなかったんですよね。あとは、アジア以外にもいろんな国に旅をして、そこでアジア料理を食べるんですよ。フランス人がつくるアジア料理と、アメリカ人がつくるアジア料理、味が全然ちがう。そこにしかないアジア料理とかあるんですよね。
—フランス人がローカライズしてオリジナルのアジア料理を生み出したんですね。
そうそう。例えば、「ボブーン」っていう料理があって、これはベトナム料理にはないんですよ。ボブーンというフランス人がつくるベトナム料理屋には、フォーのまぜそばみたいのがあるんです。上に揚げ春巻きがのっていて、ミントがのっていて。そういうのを見つけにいくためにも海外にはよく行きます。どの国に行っても、その国で作られているアジア料理を絶対確認します。スペインでも、ニューヨークでも。この前はサンフランシスコで一番流行っている店のパッタイを食べたんですが、すごい甘いんですよ。それがハチミツの甘さなのか、砂糖の甘さなのか、というのが国やエリアによって全然違う。そういうのをトータルで考えて、じゃあ、日本人でこの場所だったら、こういうのを合わせようかとか、味付けはこうしよう、とメニューを作っていくんです。
—いろんな土地を旅した経験から、そこの人に一番合う味というのが分かるんですね。
そうそう。アジア料理については特に、ちゃんとルーツを食べて、知っておきたいんです。常にアンテナをたててやっていかなきゃいけないと思っています。今アガリコでも場所に合わせて、全部メニューを変えています。例えば、池袋店だったら「牛すじの煮込み」と「バーニャカウダ」がすごく出るんです。でも、中野にいくと、全然違う。Aメニューだったのが、Cになったりするんです。
—客層によって、それだけ違ってくるんですね。中野にあって、池袋にないメニューもあるんですか。
あるある。中野のお客さんはグルメな人が多くて、毎日メニューが変わっていきます。「これあんまり売れてないから、ちょっとパクチーでいきたいんだけど」とかいろいろあって。うちのレシピは300~400ほどあるので、マーケットに応じてすぐに対応できるんです。
—そうやって日々の積み重ねたマーケティングから、スピーディかつ柔軟にメニューをどんどん変えていけるのも他社にはない強みですね。
そうですね。FCオーナーさんと僕が直接お話しして決定していくので素早く対応できるんですよね。「この店、このメニュー出てないから、ちょっとこっちを変えて」という感じで。
<アガリコの調理&サービススキルを育てる研修制度>—そのための研修制度はどうなっていますか。
うちは、2人に1ヶ月間研修してもらいます。その2人がいれば、メニューの改善や集客の切り替えなどすぐに対応できるようになります。研修を受ければ、こっちからレシピをどんどん投げても、それをすぐにメニューに反映できるようになります。対応できるスタッフが常に現場にいるというところが大切なポイントですね。
—瞬時にスピード感もって対応できるか、というところですね。
そう。うちで研修してた子は鍋もちゃんとふれるからね。ただ、そうやって結構マニアックなことをやらないと、集客できないというのはあると思います。それは、人が簡単に真似できないことをやっているから。いかに簡単にマニュアル化するかを追求するフランチャイズとは逆の理論だけど、長く続けるためには、手作りすることと、メニュー替えは必要なことなんですよね。
—アガリコのキッチンもなるべく簡単にできるようにしているというイメージでしたが、やはり研修でしっかり学ぶ必要があるんですね。
そうですね。例えば、繁盛している個人店のメニューを丸パクリするとするじゃないですか。例えば、目黒の「ビストロSHIN」。あそこはメニューを毎回変えて出しているからお客さんを集客できるんですよ。丸パクリしても最初は売れるけど続かない。うちもそれと同じ感覚ですね。メニューの出数見て、店舗ごとに場所に合わせてどんどん変えています。例えば、駅前だと、ランチ需要があるからパスタも必要だとか。だからこそ長く続く店ができるんですよ。ちょっとめんどくさいフランチャイズですね。(笑)
<会社全体の商品力、調理スキル向上>—すでにFC店を展開されていますが、どんなオーナーさんが多いですか。
うちのオーナーさんたちは、FC店だけをやっている人が多いんです。「塚田農場」やったり、「串カツ田中」やったり。その中でも店舗数が5店舗以上になってくると、「料理やりたい」って言い出すスタッフが出てくるんですよ。そういう時に、うちに声がかかることが多いみたいですね。あとはアガリコブランドを持ちたいっていうのもあると思います。個人的にうちを気に入ってくれた社長さんが話をしにきてくれることもありますね。
—アガリコFCをすることで、会社全体の調理レベルやメニュー開発力もあがるということですね。
会社にある業態の中で、料理ができるのはどこ、と考えたときに、アガリコがあれば、「アガリコに行きたい」と言うと思うんです。みんなゼロから作りたい人もいるんですよね。グローバルダイニングの「モンスーンカフェ」にいた時は、パッタイつくるのに、もうパッタイソースがあるんですよね。でも、家庭でパッタイを作るのはなかなか難しい。何が入っているか分からないから。この業態つくるには、最初にPBソースなる自分のオリジナルソースをつくるのが一番大変なんですよね。トムヤムクンとか、グリーンカレーとかのベースを作るのが大変。
—アガリコの社員さんは、ホールもキッチンも両方できるんですね。
そうそう。それがスタンダード。研修に来た子も、キッチンから入って、それからホールもやって、という感じです。ホールもキッチンもどちらもできないと、お店がうまくまわらないようになる可能性がある。FCの話に戻ると、オリジナルのレシピのものを短期間でいろいろ変えられるのが便利だと思います。その場所に合わせたアレンジを、僕がオーナーと直接やりとりして決められるから早いです。あとは、池袋店と北千住店の店長が、FC店舗を毎月2~3回まわっています。店内に入って見て、調理レベルのチェックなどをする。なにが問題なのかというのを見つけ出して、それをオーナーに報告する。そうすると改善がすぐできる。けっこう厳しいですよ。(笑)だから、フランチャイズって基本的にオペレーションが楽で、人件費もかからないで、利益が出るというイメージでしょ。うちはしっかり研修したスタッフが手作りしているから、楽ではないです。その分、ブランド価値は高いと思います。
<地方に勝機アリ!?地場に強いオーナー求む>—アガリコの強みというのは、ブランド、調理レベルの向上、スタッフのスキルアップなどが上げられますね。ところで、対象とするFCオーナーに基準はありますか。
基準は5店舗以上を運営している会社ですね。年数とかは関係ありません。あとは、店をまわせるスタッフがちゃんといるというところですね。今FCでアガリコをやってもらっている渋谷と新宿のオーナーは、30店舗くらいやってるから、人材の層が厚いんですよ。
—そもそも大林さんがフランチャイズ展開していこうと思ったきっかけは?
きっかけは、そうですね。例えば、町田を中心にやっているオーナーは町田に強いじゃないですか。けっこう町田でこういう場所であたるなって思ったときに、僕が離れている場所を遠隔で見るよりは、客単3~4000円のFCを3~4店舗やっているところのど真ん中にアガリコを出せば、お客さんをまわせる。なんでやりたいかと言われたら、それは「知らないところで広げたいから」。店舗数ももっと増やしていきたいですね。
—目標とする店舗数は。
具体的な数字は考えてないですけど、いろんなエリアにアガリコがあることで、スタッフのモチベーションがあがるかなって。
—ブランドも強くなっていきますね。
そうですね。逆に東京の外側いったほうがチャンスがあると思います。だって、バーニャカウダ知らない人もたくさんいるんですよ。僕が5年前アガリコやったとき、池袋のお客さんもバーニャカウダって言えなかったからね。(笑)。いまだにそういうところが地方にはあると思うんですよ。だからその分チャンスは大きい。それを地場に強いオーナーさんにやってもらった方がいい。—FCオーナーは東京以外でも探されているということですね。
—ほかにこういうオーナーさんとやりたいというのがあれば。
海外展開を考えている人。それはいけると思います。
—海外というのはアジアをお考えですか。
どこでも。マレーシアとか、シンガポールとかやってみたいですけどね。外国人ってアジア料理好きなんですよね。なのに、スイートチリぶっかけたやつしかなくて。それで満足しちゃってるんですよね。—最後に読者にひとことお願いします。
短期的にFC店で儲けを考えている人とは合わないかもしれませんね。うちは5年10年と長くやっていける業態です。分かりやすく言うと、「個店主義のFC」。手作り感を大切にしているので、オペレーションが大変な部分もあると思います。だからこそ、簡単に真似はできない、それがアガリコのブランドになっているんです。実際にお会いしてお話して納得いただける方と一緒にできたらうれしいですね。
1992年、武蔵小山に8坪だけの小さなスパゲティ屋がオープンした。名前は「スパゲティとすかーな」。”おいしいパスタ”を出すこの小さなお店に、初日から人は押し寄せた。それから25年。店は人を育て、数を増やし、たくさんの人から愛されるまでに成長を遂げていた。創業者は、四家公明氏。「料理を通じて人を幸せにする」ことを目指して、25年間ひたすら料理と人と店を磨き続けてきた。「日本一おいしいミートソース」も「無化調イタリアン」も同氏の人間に対する深い愛情と優しさから生まれたものだ。生産者、取り引業者、従業員、お客様。店に関わる人すべての人を幸せにしたい。そのために仲間を増やしたい。同氏は新たな一歩を踏み出した。「東京ミート酒場」のFC展開だ。今回は、FC展開にあたって同店の強みや今後の戦略などをうかがった。
—四家さんは1992年に最初のお店「とすかーな」を武蔵小山にオープンして独立されましたね。まずそれまでの創業の経緯をお聞かせいただけますか。
もともとうちの両親が千葉の船橋で焼鳥屋をやっていたんですよ。途中から割烹料理に変わったんですけど、その頃、小学2~3年くらいの時から里芋の皮むいたり、アジを捌いたりお店のお手伝いをしていました。そんな親の背中を見ていたんで、僕も料理やろうって自然と思うようになっていましたね。全然勉強もしなかったし。(笑)当時、僕の地元は暴走族みたいな悪いお兄ちゃんがいっぱいたんですよ。威勢のいい。だから、当時の思考は、「早くバイクに乗るのがかっこいい」「早く車に乗るのがかっこいい」「早くディスコに行くのがかっこいい」みたいに思っていました。なので、とにかく早く店を出したほうがかっこいいって信じてましたね。で、「早く店出すにはどうしよう」て考えて、憧れの新宿 で働く先を探したんです。 ちょうど新宿西口に大行列ができているお店があって、その場で面接申し込んだんです。店の人からしたら、行列で忙しいのに、その場で面接申し込むなよって感じですよね。(笑)それが「スパゲティハシヤ」でした。これくらい行列つくるお店で技術を得たら、必ずヒットするお店が出せるだろうと思って入社しました。—そこで四家さんの飲食人生が本格的にスタートしたんですね。
—そんな厳しい環境をどうやって乗り越えられたんですか。
ある時、後輩が入って来たんです。見ていると、先輩の言うことに対してとても素直でかわいがられるんですよね。しかも、どんどん仕事も任せられる。僕は反発ばっかりしていたんで、毎日怒られまくり。(笑)仕事覚えるために入ったのにこれじゃ早く店を出せないと気がついて思い直して先ずは先輩に可愛がられるようにしたんです。そこからうまくいきはじめましたね。—なるほど。スパゲティハシヤには何年いらっしゃったんですか。
そうですね。7年いました。最後は蒲田の東急プラザのレストラン街の店舗。僕が移動した当初は、お客様が全然こなかったんですよね。他のお店はどこも行列なのに、うちが一番ヒマなんじゃないかってくらい。大先輩が揃って何やってんだと(笑)僕は行列店で働いていたという冠をもって独立したかったのに、こんなヒマな店作ってどうすんだってね。(笑)それで、メニューを作り替えて、接客も変えて、料理写真を撮って、それをポスターにして店先に貼ったり、マニュアルも会議もなかったんで、どちらも新しく作って、やりたい放題改善させてもらいました。正直言うと当時数字なんか全く見てなかったんです。見てたのはお客様だけ(笑)なんで入って来ないんだろ?どうしてリピートしてくれないん だろう?それを徹底的に改善しただけなんです!数字を追ってたら数字は上がりません。お客様を見ないと。結果的に350万円くらいだった売上が1000万円以上までいきましたね。それで大手を振って独立できると、退職しました。-それで、武蔵小山「とすかーな」で、念願の独立を果たしたんですね。
そうですね。26歳の時でした。でも、最初は人を募集しても全然こなくてかなり苦労しました。応募があったとしても、経験がない若い子ばかりで。「ソースはあとどれくらい残ってる?1/3とか3/5とか言ってごらん」と聞いても、その「1/3」が理解できない。(笑)これはゼロから育てていくしかない。どうやったら覚えてくれるだろうって模索しながらやっていました。怒ったら萎縮して成長しないし、無理なくゆっくり育てていこうって。それからしばらくして、もう一度募集をかけたたら、大卒と中途が2人来て、自分の給料下げてでもいいから2人とも雇いたいと思って採用して任せられるまで育てました。そんな訳で2号店の代々木店を出すまで7年かかりましたよ。これも人を育てているようで実は自分育て だったんですね。 <産直食材の衝撃。“無化調イタリアン”の原点はお客さんとの出会い>—今では老舗人気店ですが、やはり苦労されてきたんですね。四家さんは食材にもこだわりをもってらっしゃいますが、そのきっかけはお客様から教えられた野菜だったとか。
—この出会いがきっかけで食材や生産地、生産者に関心を持つようになったと。野菜以外にも産地に訪れますか。
はい。食材に興味を持つようになって、漁港にも足を運ぶようになりました。最初は「そういえば、魚って漁師さんから直接買った方が安いんじゃない?」と何となく思いついて、定休日に千葉の銚子にふらっといったんですよね。すると、ちょうど港にいっぱい魚が水揚げされている。「こんなに安くて新鮮な魚がいっぱいあるじゃないか」と飛びつきました。だけど、直接漁師さんから売ってもらおうとすると全然うまく行かない。「アジ2本、ホウボウ4本ちょうだい」と注文すると、「俺らはデカイバケツいっぱいホウボウを買うんだぞ。お前のために2匹売って、残った何十匹はどうなるんだ」って怒られて。(笑)それで「なるほど」とそのシステムが分かるようになるまで、何度も通って頭下げて勉強しま した。 <シェフとして腕を磨いた飛び込みイタリア修行>—パスタ専門店として創業されましたが、四家さんがイタリア料理の勉強を本格的にはじめたのはいつ頃からですか。
先輩がはじめた立川のイタリア料理店を見たことがきっかけです。もともと僕の頭の中には、スパゲティ屋しかなかったのに、こんなにワイン揃えんるんだとか、ピザなんか出すんだとか、アンティパスト、チーズの盛り合わせ出すんだとか、とても衝撃的だったんです。しかも、内装がかっこいい。 そんな先輩のお店を見て「これからはコレだな」と思ったわけです。スパゲティだけ売っていたら、夜の売上は上がらなくなる。それで、2店舗目の代々木店は「スパゲティ&ダイニングバー」にしたんです。でもまたここで苦労して。「スパゲティ食べながら酒飲むやついるわけないだろ!」ってあとから気づいた。(笑)そこで落合シェフの本とか、接客の本とかを買ってきて、取締役の佐藤と2人で勉強しながら食事のメニューを増やして、接客も毎日のように改善していきました。—代々木店でスパゲティ屋からイタリア料理店へと変わっていったんですね。 よくイタリアにも行かれて、厨房に入って料理の勉強をされてますよね。
そうですね。代々木店が軌道に乗った頃から、イタリアに行くようになりました。初めてイタリア行ったその日に地元の人しか行かないリストランテに行って、スタッフと仲良くなって2日目には店がオープンする前に張り込んで「働かせてくれ」ってお願いして厨房に入れてもらってました。(笑)ローマ、トスカーナ、ミラノ、ヴェネチアなどのお店をまわって食材の使い方や調理方法を学びました。で、日本に帰ってきて「おい!イタリアは作り方全然違ったぞ!」と従業員全員集めて、パソコンで写真見せながら、作り方を全部教えながら変えていきました。—なるほど。それで料理のレベルアップをはかってきたわけですね。
そうそう。それからは毎年幹部を一人ずつ連れてイタリアに行っています。 <大ヒット業態“東京ミート酒場”ができるまで>—そうなんですね。ところで、今回FC店として展開する「東京ミート酒場」についてお聞きしたいのですが、この業態はどこで着想を得たんでしょうか。
もともとミートソース+トッピングのパスタを食べられる洋風なお店を考えていたんです。だけど、それだと夜が弱いので、夜はワインを置いて、つまみも置こうと考えていました。で、浅草橋の物件を見に行く途中、たまたま「秋田屋」というヤキトン屋さんの前を通りかかったんです。「秋田屋」の向かいにはかっこいいイタリアンのオイスタ—バーがあって。でも、まだ4時なのにお客さんが溢れているのはその「秋田屋」の方。どっちが商人としてかっこいいかを考えて、すぐ「秋田屋」の写真を撮って、そのまま「こんなイタリアン酒場を同じ店を作ろう」って設計士さんと打合せしに行きました。それがオープンの一ヶ月前(笑)それが「東京ミート酒場浅草橋総本店」です。—そうだったんですね。ターゲットを男性客にしたのはどうしてですか。
—イタリアンと酒場の見事な掛け合わせですね。ところで、「日本一おいしいミートソース」というのはいつから名前が付いたんですか。
代々木店からです。お客様や業者さんが「あちこちで食べるけど、ここのミートソースが日本一美味しいよね」と言ってくれたので、「なるほど」と思って試しに看板に書いてみたんです。そしたら、その名前に惹かれてけっこう来店してくれるお客様が増えたんです。「外に書いてある“日本一”っていうのを下さい」って。そうやってどんどん名前が一人で走りはじめたんですよね。でも“日本一”という割には正直日本一かどうか疑わしい(笑)じゃ、もっと磨き上げようと思って、改良をはじめたんです。まずは、とにかく材料を良くしないとおいしくなるはずがない。だから、試作段階で原価を気にするのを一切止めました。例えば、中国産の缶詰めを止めて生のマッシュルームに変えたり、安いハウスワ インじゃなくて、フルボディの無農薬の赤ワインにという具合に変えていきました。当然、原価も一緒に上がるので、そこは食材の調達段階で工夫をしました。産地に行くと、A品だけじゃなくてA・B品があったりするんですよ。実はB品の方が旨味や香りが立ってて旨い!そうやって、味を落とさずに原価だけ下げてお客様負担を限界まで下げました。 <無添加でおいしいメニューをつくるセントラルキッチンとの関係>—そうやって改善を重ねてこられたんですね。現在は、そのレシピでセントラルキッチン(CK)も上手に取り入れられていますよね。
—東京ミート酒場のメニューで、CKで作っているものはどんなものがありますか。
—それをFC展開、CKでも実現できると。
そうです。やろうと決めればできるんです。ただお金も手間もかかるからみんな安くて簡単に口の中だけで旨いと感じさせる化学調味料を使っちゃうんです。 そもそも、金儲けが目的じゃなくて、人を幸せにするのが目的なのに、身体に悪いものを提供して人を幸せにはできませんから。 <産直食材、オリジナルレシピ、ブランド力——。25年のノウハウが凝縮したヒット業態>—お客様に対していわゆる“セントラルキッチンっぽさ”を感じさせない味で提供できるということですね。独自で開発した質の高い料理を、現場で簡単にできる。そのあたりの調理面の研修体制は。
だいたい1ヶ月くらいお店に入ってもらって教えます。—経験面など条件はありますか。
ありません。東京ミート酒場石神井店のアルバイトの子に教えて一週間ぐらいでストーブできるようになっていますから。人それぞれですが研修は、ストーブ一週間、スタンバイ一週間、ホール一週間、座学一週間でできなければ延長して教育します。—なるほど。理念から実践までしっかりカバーされていますね。ところで、FC展開をはじめようと思ったきっかけは。
直営でもいいんですが、やはりスピード感がない。だから、同じ理念を持ってやってくれる人がいれば仲間を増やして早く多くの人を幸せにしたいと思ったんです。—店舗数はどこまでのばしたいですか。
より多くの人を幸せにできるなら、仲間は多ければ多いほどいいと考えています。東京ミート酒場に限らず、このミートソースを商品として卸もはじめています。社食でお出ししたり、パイ屋さんのミートパイに使ってもらったり。海外も含めてミートソース専門店の展開もしていきたいですね。—FC展開の対象エリアは。
弊社の物流センターからまとまって荷物が各店に届けられるので近い方がコストを抑えられるので、まずは東京、神奈川、埼玉、千葉あたりですね。—どのようなFCオーナーさんとやっていきたいですか?
お金目的の人はお断りします。うちは健康的な料理を作って、人を幸せにして、その結果ちゃんと収益が上がる状態になっているので、まずはうちの理念に共感していただける人と一緒にやりたいですね。—ほかに店舗数や経験年数、企業規模などの基準はありますか。
最初はできれば数店舗経営されている現場好きなオーナーさんがいいですね。—東京ミート酒場の物件の坪数は。
基準は15坪から25坪くらい。石神井は異例で35坪80席くらいあります。—既存店の売上はどのくらいですか。
8月にオープンした石神井店はオープン後から少し落ち着きましたが、それでも一日平均35万円くらいです。浅草橋は7坪の2階建てで1000万円超えていますね。御苑は650万円くらい、オープンしたばかりの武蔵小山4号店も1000万円前後ですかね。 すごいですね。会社としては当分東京ミート酒場の業態で出店していく予定ですか。 そうですね。トスカーナをやらないのではなくトスカーナの集大成が東京ミート酒場なんです。これまでトスカーナで磨き込んできたこだわりや技術をミート酒場に注ぎ込んでいます。—御社のFC店としての強みは。
—なるほど。あとは、テレビをはじめメディアにも多数取り上げられていますから、認知度、ブランド力も強いですね。
テレビ局も飽きずに来てくれるのでオンエアされる度に各店の売上が上がります。—東京ミート酒場の単価は。
単価は昼は1000円、夜は2800円くらいですね。—FC店舗では目標の店舗数はありますか?
店舗数が目的ではなくお客様に感謝されるような価値の高い、質の良い店を長く続けて行きたいです。社員ののれん分けと平行してFCさんを増やして良い仕事をしていれば自然と100店舗くらいになっていくと考えていますのでその時に上場させたいです。 幹部や社員、アルバイト、FCさんが誇りを持てる会社にするためにも。—最後にFCオーナーさんへのメッセージをお願い致します。
とりあえずパスタが嫌いと言われると困りますね。(笑) 会社の社風を良くしたいと思っている方、人を幸せにするという途中経過をちゃんと理解して大切にしてくれる方、そんな方に来てほしいですね。日本の外食産業に変革と成長をもたらすかもしれない。M&Co.代表の森智範氏は、そんな予感をさせる業界きっての飲食プロデューサーだ。バブル期の高級レストランで下積み、サービスマンとして“一流”の味、サービス、技術、空間づくりを身体に叩き込んできた。その経験をいかして、高級店のそれを自由自在にカジュアルな日常使いの店に落とし込む手法は彼の真骨頂だ。フレンチレストランや分子ガストロノミーの調理器具や技術を居酒屋に取り入れる。レスラーなどの個性的なスタッフを起用するなど、同氏のつくる店は常に新しい体験をお客に提供し続けてきた。そんなクリエイターともいえる同氏が、飲食店プロデュースを通じて、日本の外食や食の在り方を変えようと動き出している。今回は、同氏独特の繁盛店をつくるプロデュース手法や今後の展望についてうかがった。
“繁盛店プロデューサー・森智範”ができるまで—「魚男」をはじめとした自社店舗以外にも、すでに飲食店プロデューサーとしても数々の実績をお持ちですが、森さんが飲食の世界に入ったきっかけは何だったんですか。
—その後、厨房には入らなかったんですか。
一度入ったんですが、3日で逃げた。(笑)逃げたというか、すごい怖い先輩で、寝坊したんですよ。で、行けなくなって。そしたら、石鍋さんが家まで迎えにきてくれて、「お前はホールをやれ」と。そこから本気で勉強しはじめて、20歳でソムリエ資格もとりました。そこで3年くらいやった後は、いろんなお店で経験を積みました。例えば、銀座の「ペリニィヨン」というフレンチのお店にいたときは、銀座のすごい客層を目の当たりにして衝撃的でしたね。「この人のお父さんが石油を輸入しはじめた人」だとか、お坊さんの偉い人とか、大物芸能人とか。そこでもサービスをやっていんですが、お客さんのことは全部覚えました。この人が何を飲むのか、ビールは、アサヒなのかキリンなのかまで細かいことまですべてです。サービスの面白さや奥深さが分かってきて楽しくて、とても勉強になりましたね。その後、また石鍋さんのところに戻って、銀座プランタンの店のマネージャーになりました。そこでは、当時2000万円くらいの売上だったのを、4000万円くらいまで持っていきましたよ。—すごいですね。どうやって売上を倍にまでもっていったんですか。
ただ単純ですよ。“お運びさん”だったのを“サービスマン”に変えたんですよ。お客さんを喜ばせる、楽しませるのがサービスマンですからね。それまでは、とても忙しいお店だったので、言われたことをやるだけでした。だけど、僕はお客さんに喜んでほしいから、手を変え品を変えやっていたんです。そしたら、売上がどんどん上がっていったんですよね。—なるほど。そうやってエンターテイメント、体験を重視する森さん流の店づくりの基盤ができてきたんですね。
—当時の売上はどのくらいだったんですか。
17坪で最低でも600万円、多い時で1000万円くらいはずっと維持していましたね。高級食材を使った料理を客単価3〜4000円で出すには、原価の調整が必要。それには福岡ってすごい良い街なんですよ。少しいったら海があって、少しいったら山がある。だから、自分で取りにいけば抜群に安くなるんですよ。そういうのを組み合わせていきながら、原価をおさえる工夫をしました。—高級店の食事やサービスをカジュアルに落とし込むというのは、今も変わらない森さんのスタイルですね。
そうですね。そういう時代の潮目というのは当時から感じていました。お客さんはカフェと思って入ったら、レストランのクオリティというのに皆さん驚いていましたね。食事だけじゃなくて、接客にしても、食器にしても高級店のそれなんですよね。—それで、一気に話題の人気店になったと。森さんというと「魚男」のイメージが今では強いですが、こちらに付いて出店の経緯は。
—その際にマニュアル化など展開を考えていたんですか。
いえ、その時は考えていませんでしたね。まず「魚男」でやりたかったのは、一般的な居酒屋を少しデザインを変えてやろうということ。お刺身を階段皿に乗せようとか、そういうつかみを入れてみたりですね。最初は「磯貝」の繁盛している仕組みを「魚男」に置き換えてやっていましたが、それに加えてレストランのプレゼンの仕方や技術など、これまでの経験で得た要素も取り入れました。例えば、肉じゃがをケーキの形で出すのもそうですね。そしたら、思いのほかお客さんの反応がよくて。あとは、人がいなくて外国人をいれたりしていたんです。それもお客さんからの反応よかったんです。—当時、「魚男」はどれくらい売上げていたんですか。
最初の月で900万円くらいは売っていましたね。パロマグリルがすでに有名だったので、その系列店だということですぐにお客さんはつきました。 会社全体の価値を高める“オートクチュール型プロデュース”—すごいですね。それが御社にとって一つの展開型のひとつのベースとなっているわけですね。ところで今回、自社業態をそのままFC展開するというよりは、プロデュースに近い形になるとうかがいました。プロデューサーとして御社の強みはどこにあるとお考えですか。
—なるほど。一社一社それぞれに合った業態を開発するということですね。
そうですね。FCがプレタポルテだとすると、僕はオートクチュールでやる。FC展開は1や2を10にも20にもしていくことですよね。それよりも僕は0を1にするのが好きで、そっちの方が向いているんです。—まさにクリエイティブな部分ですね。
そうですね。僕はデザイナーみたいなもんです。ファッション業界は、経営者とデザイナーがいて、ひとつのブランドを創り上げている。何十年もブランドが陳腐化しないのは、クリエイティブな部分と経営の部分がはっきり分かれているからだと思うんですよね。その手法を飲食事業にも入れたらどうかと。 新たな収益源を生み出す核をつくる—飲食店のデザインというと、コンセプトからメニュー開発、店舗デザインなどの業態開発ですね。その際に、重視しているポイントは。
—広がりを持つ核となる店や会社を一緒に創っていくというプロデュースですね。
そうです。新しい飲食店の形をつくっていきたいんですよね。洋服屋だったら服を最初に買うだけであって、お店にいったらお茶もあったり、飲食もあったり。飲食店の場合も、ご飯だけを売るんじゃなくて、全部を提案する。24時間お客さんの生活にまとわりついてもいいじゃないですか。—なるほど。例えば、それがお店のオリジナルのグッズ販売など新たな収益源にもつながるわけですね。
そうですね。例えばお皿だったら、「盛りやすいよね、見栄えがいいよね」とか言いながらプロ目線で開発する。そしたらお客さんの自宅の食卓を華やかにできる。クリエイティブというのは、言い換えれば世の中をもっと楽しく、面白く、もっといえば幸せにすることだと思うんですよ。それを飲食店を通してやるだけです。 飲食店から新しい時代をつくりたい人、募集—森さんは居酒屋のプロデュースを多くされていながら、星付きレストランやアパレルショップなど、居酒屋以外のお店をとてもよく研究されていらっしゃいますよね。そういった異なる分野の要素を巧みにとりいれ、細部にまでこだわったストーリーのある店づくりで、数々の人気店を誕生させてきましたが、今、森さんご自身はどういった方と一緒にやっていきたいですか。
—飲食店という枠をとらわれない提案をどんどんしていくと。
そうですね。その街全体が楽しくなるように。食のプロデューサーになりたいんです。—そもそも森さんがプロデュースをしていこうと思ったきっかけは。
この歳になって思うのは、そういうのが好きなんですよね。自分がぐいぐいやって100店舗出すというよりも、こういう話をしながら、会社や人が成長していくのを見るのが楽しいんです。外から僕がプロデューサーとして入って見ると、その会社にとって足枷でしかないと思っていた者が、僕からしたら宝物に思えることもあるんです。そういう自身の可能性に気づいてもらえるきっかけになれたらうれしいですね。—最後にみなさんにひとことお願いします。
日本の外食産業というのは、間違いなく世界に誇れるものです。それをさらに突出させていきたい。悔しいんですよ。外国人が日本の要素を持って行って、むこうで上手くやっているのが。(笑)日本で新しい食文化っていうのを創りたいです。外国人が自国でやりたくなるような店を創りたいんです。それには新しい外食産業の形が必要なんです。こんな思いに共感していただける方なら大歓迎です。「ワインの魅力を多くの人に伝える」というミッションを掲げ、一号店「VINOSITY」を神田にオープン。たちまちワインブームの火付け役となったシャルパンテ代表 藤森真氏。「こぼれスパークリングワイン」などのこれまでの常識を覆すユニークなメニューづくり、深い知識と確かな経験に裏打ちされたワインのセレクトと食事。“本物”をもっと気軽に、身近に、日常的に楽しんでほしい。そんな想いから、飲食店経営にとどまらず、ワインショップやワインスクールまで経営する。ワインバルなんて一軒もなかった神田の街で、またたくまに中心的存在となった繁盛店の裏には、高度な教育環境、考え抜かれた商品開発とオペレーションの仕組みがあった。より多くの人に、ワインの魅力を伝えていくため、FC展開に乗り出した同社代表の藤森氏に、同社の強みと今後の戦略を聞いた。
VINOSITYについて—まずシャルパンテ創業の経緯をお聞かせいただけますか。
藤森真氏(以下、藤森) 2010年10月に会社を設立しました。物件がちょうど見つかったので、法人設立してから、物件をおさえて出店準備をして、翌年1月、神田にVINOSITY本店(以下、本店)をオープンさせました。—“ワイン居酒屋”という構想は以前からお考えだったんですか。
—そうだったんですね。それから、2号店となるVINOSITY magisを同じ年に出店されていますね。
—食事メニューはロゼに合わせて、変更されたんですか。
グランドメニューは全店統一して、おすすめのみ変えています。VINOSITYというブランドで統一性を持たせる部分と、デイリーの部分でロゼにあうメニューを中心に「おすすめメニュー」というのを考えさせていただいております。—3店舗目がVINOSITY maxime(以下、maxime)ですね。こちらはどのように業態を変えて出店されたんですか。
—飲食店以外にもワインショップも経営されていますよね。
—本店をパッケージ化してFC展開していくということですね。FC展開していくにおいて御社の強みはどこにあるとお考えですか。
商品開発、業態開発ですね。技術を持たない人でも、高いレベルのものを提供できる仕組みがあるのが強みですね。—具体的にどういった仕組みがあるんですか。
—とてもハイレベルな方々が集結していますね。
技術も経験もキャリアもある人たちが会社にいて、商品開発のトップを担っています。—セントラルキッチンで、各店舗の料理を作っていくということですか。
そうしていきたいと思っています。例えば、田舎風パテなんかは、レシピだけでは、その通りに作れないんですよ。ですが、パテで店のレベルが分かるくらい、シェフの考え方や方向性がすべて出る料理でもあるんです。これまでしっかり料理の経験を積んできたか、料理に対して知識がちゃんとあるのかなどが、一口食べれば分かります。私たちはちゃんとフランス料理として、フランスのビストロで出てくるもの、もしくはそれ以上のものを提供することができると思っています。それをセントラルキッチンで再現して、各店舗で高いクオリティを保てるようにしていこうと準備しているところですね。—メニュー開発本部とセントラルキッチンという両輪がFC展開していく際の大きな強み、肝ですね。
そうですね。高い技術を必要とするものや、手間がかかるものは、すべてうちから配送、提供していきます。そういったものをうちから全部納品してあげることで、現場では、カットして盛りつけて出すだけで済む。仕込みに時間や技術を必要としなくなるわけですから、人件費が軽くなります。人件費が高い技術者に頼らずに済むようになります。アルバイトの子たちでもできるようになる。出来れば料理が好きな子にやってほしいとは思っていますが。—それが御社のfc展開の仕組みの肝ですね。
—なるほど。商品開発力とセントラルキッチンの仕組み化以外に、FCオーナーにとってのメリットはありますか。
うちのブランド力も大きなメリットだと思います。いまだにすごい件数の取材を受け続けていますし。—ワインスクール「シャルパンテカレッジ」も魅力的ですよね。
—確かにそうですね。ワインショップはどのような位置づけになりますか。
うちから各店舗への卸もします。ワインについては、僕が直接フランスから輸入しているものもありますし、うちならではのリストといえますね。 FC展開する理由とその思い—そもそもFC展開をしていこうと思ったきっかけは。
—どのようなFCオーナーを探されていますか
意欲がある方。飲食に愛がある方がいいかな。—何店舗以上経営しているとか、飲食経験何年以上とか基準はありますか
ないですね。面談してみて、フィーリングが合えば一緒にやっていきたいですね。お互いにウィンウィンになる関係性を築こうと思ってくれる人がいいですね。逆に言うと、うちに全部おんぶにだっこじゃ困りますね。うちの仕組みを利用してやろうと思っている人たちがほしいですね。うちの教育の仕組みとかワイン学べる環境っていうのは、オーナーさんの他の系列店でも生かせる可能性もあると思います。—目指す店舗数とかは重要ではなくて、フィーリングあって、想いを汲んで一緒にやっていける人がいれば増やしていくという。
—FC展開をする対象エリアは。
都内と名古屋ですね。来年4月に名古屋にお店をオープンさせるので、そこを拠点にします。名古屋はフランチャイズに強い方たくさんいるので、やっていただきたいと思っています。—シャルパンテとしてFC店舗とどのように関わっていく予定ですか。
まずは一ヶ月間、本店に研修に入ってもらうことからはじまります。人数は、2〜3人。店舗オープン時は、僕も現場に行くし、そこで伝えられることはどんどん伝えていきます。僕は立ち上げだけでも、過去100店舗以上やってきた実績があります。田崎真也さんのところや、スティルフーズでもあらゆるお店の立ち上げ、運営などマネージメントしてきましたから。—オープン時に現場に入ってご指導されるんですね。その後のフォローは。
月に1~2回お店を見てまわります。僕自身も行きますし、シニアソムリエ3人いるので、彼らも行きます。そこで気づいたことがあれば、調整していった、特別に必要と判断したときは、本部から人を派遣して立て直しのサポートをします。—心強いですね。最後にFCオーナーへのメッセージをお願いします。
みなさんと一緒に成功していきたいと思っています。そのためには全力を尽くします。ダメだったらさよならっていうことはしません。ワインの魅力を多くの人に伝えていく、という会社のテーマのもとにやっているので、手抜きはしません。熱意を持っていただける方と一緒にやっていきたいですね。